須田長義公、栄光と不運の17年-須田大炊介長義事跡資料-

1.政宗に対峙した長義(通称「松川合戦」、別称「北の関ヶ原合戦」)

慶長3年(1598)8月、豊臣秀吉が没し「石田三成・上杉景勝」と「徳川家康」の関係が悪化し、慶長5年(1600)9月の関ヶ原合戦で勝敗が決した。しかし、伊達・信夫地方は「政宗」と「景勝」の対戦がそれまでの前哨戦から慶長6年まで続く。その様子について、次の上杉関係資料にみられる。

慶長3年(1598)3月29日

「諸士遠境ヲシノキ所々二移リ未ダ其居止ヲ安ンセス衆ノ疲労休息ナキヲ伺ヒヨキ時節卜思ヒ仙台城主伊達左京大夫正宗ハ兵士ヲ出シ福嶋地ヲ侵シ民舎ヲ放火ス…」(「景勝公年譜」)

このときの政宗は、旧領奪回の小手調べであったとみられる。
慶長5年(1600)2月

伊達・信夫の民、隣境の伊達氏諸将に煽動され、伊達氏に応ずる動きがあった。(「上杉伊達軍記」)

慶長5年(1600)6月23日

伊達成実・片倉小十郎ら七千余兵で梁川城を攻める。(「上杉文書」)
「…大坂家康公御内意にて相馬領を経て岩手沢城へ帰城するに、其内に簗川城主須田大炊介長義、人数を出し、伊達家の片倉小十郎、柴田小平治と大枝といふ所にて、六月廿二日、鉄砲矢合あり。是政宗と上杉の手切初なり…」(上杉史料集「上杉将士書上」)

政宗の上杉侵略が本格化してきていることを意味している。「伊達郡誌」は「梁川城には須田長義城将として当年23歳の血気盛んなるに加え(この年25歳)6月初旬、横田大学鉄砲百余挺をもって来援し、佐竹よりも車丹波来たりて加勢、総勢2千余騎、政宗来ると聞き、進んで大枝村に進撃し流れを乱して血戦す。政宗大敗、死傷非常に夥しく河水(阿武隈川)為に赤しという…」と記す。
慶長5年(1600)6月26日

須田長義、千余名の兵を出し伊達氏へ応ずる輩を討伐する。(「上杉氏伊達軍記」)

慶長5年(1600)7月12日

「正宗ハ梁川ノ郷民二金銀ヲ与ヘ一揆ヲ催シ刈田ノ古塁ニ楯篭ル、本村、上泉、榎並、青柳等是ヲ聞ヨリモ時刻移サス押寄逆徒ノ郷民悉ク賭殺スル由会津に注進ス」(「景勝公年譜」)

慶長5年(1600)7月24日

「…白石の城には、廿粕備後守清長差置かるゝ所に、清長妻女死去により、清長会津へ忍び引くところを、政宗へ知らす者あり。政宗、白石へ押寄せ相戦う…豊野又兵衛打出で火花を散らし戦い、171人討取る。政宗方も千余討取る。白河落城…」(上杉軍記」)

清長妻女死去により…について「福島市史」は、「上杉氏伊達軍記は甘粕が白河の軍議に景勝の招きで参加した留守に…」と記しており、信憑性は疑わしいと指摘す。

白石城の落城によって、梁川城は伊達政宗の脅威にさらされることになり、上杉側は梁川城を守ることに懸命であった。次の資料からも分かる。

慶長5年(1600)8月4日

「梁川加勢ノ面々ハ、異事ナク相越ケルヤ、且其表ノ普請等在陣ノ者共相談シ急度申付油断スベカラス…如何共、政宗取逃ザル様イタシタク候…」(「景勝公年譜」)

直江兼続が福島城の小田切安岐守、車丹波守等宛ての書面で、福島の兵が梁川城を応援したこと、政宗を討取る意欲に燃えていたこと等が分かる。
慶長5年(1600)9月12日

兼続、最上領攻撃(最上合戦)

慶長5年(1600)9月15日

関ヶ原合戦、東軍勝利する。

慶長5年(1600)10月5日

松川合戦。

松川合戦について「三公外史」や「上杉氏伊達軍記」は次のとおり伝えている。
 政宗2万の兵にて福島に侵攻。
 関ヶ原の戦いで西軍が敗戦となったことにより上杉の主力が米沢に引き上げてしまった信達は、政宗にとって絶好の的になった。
 まず政宗は、須田の動きを封じるために片倉小十郎を阿武隈川西岸に配置、松川に軍を進めた。これを迎撃した福島城の本庄、一時は伊達側に損害を与えはしたものの、何度かの乱戦で安田、北川などの主だった武将を戦死させるという痛手を蒙った。
 本庄勢退却…。それを見た政宗は松川を渡り本陣を信夫山麓に移動。片倉も須田動かじと判断、梁川を離れて政宗軍に合流開始。片倉軍が福島に向かったことを知った須田は、阿武隈川を渡り上流と下流の二手から、闇に乗じて伊達勢の後尾に激しく切り込んだ。
 不意をつかれた伊達勢は陣を乱してくずれる。
 「三公外史」には、「…須田大炊介、小荷駄、兵糧、武具ハ申スニ及バス、伊達家の看経幕(かんぎょうまく)(刺繍した幕)竹二雀ノ幕、九星ノ幕ヲ分捕ル…政宗も敗軍ニテ本道ヲ除ク事叶ズ摺上ヨリ信夫山ハ除ケ、茂庭山へ掛リ白石城へ引取ル…」と記している。
 これは上杉側の記録であるから誇張もあろうが「岩磐史料」も「浮足立った伊達勢は敗走し、上杉勢政宗方を討取りし首数千、信夫山より桑折三里余の間、人馬の死骸で足の踏所なかりけり」と、須田の活躍を称えている。
 政宗は「奥州の関ヶ原」と呼ばれるこの戦いに上杉領民に内応をすすめる廻文を配ったり、梁川城の横田大学に内通させたり、周到な用意をしていた。しかも先祖から4世紀にもわたって領した土地でもある。旧領奪還成れり…と思っていたであろうその直前、新参者に見事阻まれてしまった。
 一方、移封後間もない長義にとって「奥羽の王者」の存在は大きな脅威であった。
 それがこの松川合戦で上杉方を勝利に導いた長義の見事な作戦と、すさまじい攻撃力を高く評価する資料が多い。上杉軍記でも「杉原常陸介、須田大炊介、安田上総介の上杉三介と諸人褒美す。武勇の人なり」と記している。その原動力はなんであったか。信州の井上氏を騎馬隊の頭領とする伝承が、地元須坂周辺にはかなりあるという(「須高」10号)。井上氏を分流とする須田長義には、その血が流れているのかもしれない。あるいは、破格の待遇で起用してくれた主君へ応えるものであったかもしれない。
 なお、この戦いで長義に従い決死の戦いを挑んだ伊達郡小手郷の六十三騎が名高い。川俣町史二巻には、氏名、功績、須田大炊介からのお墨付(百石から二百五十石)を賜り、その後も馬上奉公を決意している…等について、小手郷四郡役であった秋山の高橋清左衛門家(寛永15年代官高橋太郎右衛門によって書き遺した)に資料が収録されている。

慶長6年(1601)2月26日

政宗、梁川攻略(「上杉氏伊達軍記」)。

慶長6年(1601)2月29日

梁川城へ政宗取掛カリ城主須田大炊介長義トー戦、敗退(「三公外史」)。

このように松川合戦で敗走した政宗であったが、信達への野心断ち難く、その後何度か長義と交戦しその都度撃退されている。こうした政宗対長義の熾烈な抗争も慶長6年6月6日「家康と景勝和議成立」によって幕を閉じることになる。
慶長6年(1601)8月16日

「奥州会津仙道を転じ、羽州置賜郡米沢及び奥州福島に於て三十万石を領地あるべき」の命を家康から受けた。(「三公外史))

景勝はこれを受けて「秩録は会津時代の三分の一として米沢転封の後、米沢、福島のうちに宛行うこと」の令を出す。(「景勝公御年譜」)
これによって長義も二万石から3分の1の6666石に減じられるが、長義は梁川城代のままの地位を保った。
2.大阪冬の陣、須田長義無念の死
慶長19年(1614)10月

徳川家康による上杉景勝に対する減封から13年目の慶長19年10月、大坂冬の陣が起こる。かつては大坂方の五奉行として重きをなしていた景勝に、徳川家康側の一員として、大坂に弓を引く運命が待ち受けていた。

慶長19年(1614)11月6日

先発隊を命じられたのは、須田長義、水原親憲(猪苗代城代)、安田能元(浅香城代)、銕(くろがね)泰忠で、11月6日木津(現浪速区)へ到着、26日、鴫野において大阪方と戦闘を開始した。
常に先陣の侍大将として敵を引き受け突き崩した須田について、「景勝御年譜」は、「この日、家臣須田長義は先隊に進み、井上五郎左衛門が守る柵を攻め取り深入りして傷をかうぶるといえども、ついに敵の士、武田兵庫を討とる…。」と記している。

元和元年(1615)正月17日

「元和元年正月17日、家臣須田長義、銕泰忠、水原親憲等が鴫野の軍功を賞せられ御感状を下され、おのおの時服ー襲(ひちかさね)をたまひ、長義に来国光の御刀、親憲に黄金十枚を添らる…。」ともある。戦国の世とはいえ負傷しながらも、「きのうの友を」討取らねばならない長義の心境は複雑であったに違いない。

元和元年(1615)4月

再び大阪の役がおこるが、長義は負傷して出陣がかなわず、代って梁川城留守役の岩井靱負(ゆきえ)正満を送り出して間もなく、梁川城で永眠。元和元年(1615)6月朔日、まだ40歳の働き盛りだった。戒名「高聳院殿峯山浄乾大居士」。

長義の遺骸は、彼の開山である臥龍山興国寺に葬られた。その墓守として梁川に永住を決意したのが粟野の須田一族だと伝えられであるが根拠は定かでない。

伊達政宗を押える期待を担い、異郷の梁川へ入部して期待以上の働きをした勇将須田大炊介長義。それは、主君上杉景勝に臣従し、栄光と不運の命運を辿ったそのものの17年間であった。

(出展資料:梁川町史資料集第12号引用)

註(1)「岩磐資料」「郡誌集成」などは近代の刊行物なので利用の際には注意を要する。

註(2)梁川町史資料集第12は、昭和57年に八巻善兵衛氏が執筆されたもので、その後「松川合戦」などは別説も発表されている。